『凍る大地に、絵は溶ける』 あらすじ

『凍る大地に、絵は溶ける』で、第29回松本清張賞を頂いた。天城光琴あまぎみことです。

 

松本清張賞|日本文学振興会 (bunshun.co.jp)

 

正直タイトルだけ聞いても、一体何の話なのか、そもそもジャンルは何なのか、全く想像が付かないと思うので、ごく簡単に作品紹介を出来ればと思う。

私が主に書いているのはファンタジーだが、架空の時代小説のようなものだ。魔法も妖精も出て来ない。

『凍る大地に、絵は溶ける』の舞台は、農耕民族と遊牧民が共存する、稲城いなきのくにという場所である。二つの民族は、過去に衝突した過去を持つものの、今は国土の北と南に住み分けておおむね平和に暮らしている。遊牧民アゴールは山羊を養いながら、冬の間は違う牧草地に移動して生活し、農耕民・稲城いなきのたみは一年中同じ土地で暮らしている。

そこに、ある日突然――人々の目が、動きを捉えられなくなるという異変が襲う。

腕を振っても、見えるのはその先の草原ばかり。誰かが走っても、音でしかその存在を感じることが出来ない。雲は静止しているように見えるが、牛くらいの速度になると、靄を引いたように見える。ゆっくりとした動きはかろうじて残像が景色の上に見て取れるが、瞬きなどの速い動きには気付くことすら出来ない。人々の目に映るのは、全てが止まった姿だけだ。

突然襲った理不尽な異変に、遊牧民アゴールは途方に暮れる。山羊が見えないのでは、放牧に支障を来す。何とか手探りで今までの生活を続けようとするが、そんな中、国を治める農耕民・稲城民との関係も次第に変わり始めていく……

 

こんな世界を駆け巡るのは、二人の人物だ。遊牧民アゴールであるマーラは、生き絵と呼ばれる芸の作り手で、アゴールの族長に仕えている。生き絵とは、草原の中に額縁を立て、その中で織りなしていく芝居だ。まるで絵が命を持っているような様から、その名がつけられている。生き絵はアゴールの伝統でもあり、部族同士の交流の場で、もてなしとして披露されている。

もう一人は苟曙こうしょ、こちらは稲城いなきのくにの宮廷で奇術師をしている。芸術狂いの王に気に入られ、栄華を築いていた。天才的に器用で、毒蛇を宙に抛って手玉のように受け止める蛇飼之技へびかいのわざという芸も難なくこなした。

これは、この二人が、目の異変に伴う理不尽な世情の移ろいに揉まれながら、もがいていく物語だ。

 

 

今まで、ファンタジーといえば、異世界を舞台とするハイファンタジーか、日常の中で不可思議な現象が起こるローファンタジーの二種類が主なジャンルだったと思う。

だが私は、このハイファンタジーとローファンタジーを組み合わせることで、今までにない新しい世界を作るつもりだ。異世界の中で起こる不可思議な現象を、彼らの目を通して描けば、そこには見たことがない景色が広がっている筈だ。それを私は文字にして、世に届けたい。大きく言ってしまえば、ファンタジーの中に新しい一大ジャンルを築き上げ、その祖となり名を遺すことが、私の野望である。

だが、野望はそれだけではない。もう一つは、〈誰かにとっての運命の一冊になること〉――私の作品で、誰かの人生を変えるほどの影響を与えたい。実力からすれば遠大な野望だが、そのために私は筆を執る。同じく、作家に人生を変えられてしまった者の一人として。

 

決意表明の意味を込めて、現状の実力に恥じず青っぽい大志を吐いたが、青っぽくて大いに結構、呆れて笑ってくれても良い。だけどもこんな青臭い作品を、どれどれちょっと読んでみようかと、書店で手に取っていただけたならば、こんなに嬉しいことはない。

山の静寂をかき破る、命

 山の清涼感は、窓を閉じていても何処からか滑り込んでくるのだろうか。三角屋根の山荘の中も、すんとした気配が満ちていた。木目のはっきりとしたフローリングは素足では冷たいが、暖房の熱を帯びた居心地の良い温もりは、ステンドグラスの光の差し込む吹き抜けの二階まで漂っている。外でさわさわと揺れている木々は色とりどりの模様に透かされて、床の上で影絵のように踊っていた。

 山奥には、風の音と、時折車が通る音が遠くに聞こえるほかは、何もなかった。原稿用紙の上を滑っていた万年筆が、立ち止まるようにしばらく宙に浮くと、本当の静謐が身に染みる。身体中の全てが空になり、山に在る一つの命に返っていくようだった。机の縁に手を伸ばし、椅子を傾ける。ぎっ、と木が軋んだが、それ以外の音は絨毯に吸い込まれた。私は澄んだ空気を吸うと、また小説を書き始めた。

 そうしてしばらく筆を進めた頃だろうか。紙の厚みが増えてきた頃、ぶうぅううん……という羽音が耳に付いた。
 それは時折、疲れたように休んでは、またぶんぶぅんと鳴り始める。窓も扉も開けていないから、虫は外にいる筈だ。そのうちどこかに行くだろうと、無視して執筆を続ける。だが、羽音は一向に止まない。家の中に入ってしまったのではと眉を顰め、音のするあたりに近寄ったものの、斜めに下がった天井にも、木目の映える壁にも床にも、動き回る影は見当たらなかった。

     他の音がない分、羽音は一層耳に付く。不快なので、耳にイヤホンを差し込んだ。それからしばらく机に向かっていたが、CDが一枚終わってイヤホンを外しても、まだ鳴っている。

    一体何処にいるのかと、立ち上がってもう一度よく探してみたら、はっとした。虫は、外にいるのではない。窓と網戸の間で、出れずにもがいているのだ。

 ステンドグラスをよく見ると、窓と網戸の間にある数センチほどの隙間に、同じ種類の虫が五匹も張り付いているのだった。黒く、とんぼにも似た形をしている。ある物は網戸に足を掛け、ある者は窓の突起を歩き回っている。そして、時折羽音を立ててもがきまわっては、疲れたように窓に沿って歩く。一体どうして締め切られたこの隙間に入り込んでしまったのかは分からないが、彼らはみな、ここから出たいと主張していた。
いや、と思い直す。全員ではない。しきりに動きまわっているのは三匹ほどで、他は全く動かないのだった。諦めてしまったのか、もう死んでいるのかは分からない。

 学習性無力感、という用語を思い出した。心理学のとある実験で、マウスの行動とは何も関係なしに電流を流したり止めたりし続けていると、次第にマウスは、自分の行動が何の結果も齎さないと学習する。その状態で水に放り込むと、ここで足掻いても無意味だと思うのか、三分の二のマウスは泳ぎもせずに諦めてしまうのだ。
    動かない虫たちもそうなのかもしれない。もう足掻いても何処にも行かれないと知り、無駄な消耗はやめて、静かに死を待っている。食糧の手に入らない環境で、その判断は賢明なのかもしれない。
 しかし何度も諦めずに動きまわっている虫からは、生への渇望が、はっとするほど強く感じられた。生きたい、諦めたくない、という叫びが、生々しい声の形で空気を震わせていた。先ほどは不快でたまらなかった羽音が、今では悲鳴のようだった。

 私の力では容易に開ける窓が、目の前にある。

 開けたい、と思う。彼らの努力が報われて欲しい。私は、彼らにとって神にも等しい存在だ。ほんの少し、御手を動かせば、彼らを絶望からも苦しみからも救える。再び、彼らに自由な天地を与えることが出来る。

 しかし、と同時に、人である私は思う。この網戸を開けてしまえば、この虫たちは家の中に入ってしまうだろう。二階だから、ベランダから回り込んで、窓の方を開けてやることは出来ない。彼らを解放するには、網戸をあけ、一度家の中に招き入れる他ないのだ。その後、飛び回る虫たちを窓の近くに誘き寄せ、また外へと解放するのは相当の難儀だ。その間、ずっと窓を開け放っていれば、また別の虫が入ってくるかもしれない。私は静かに小説を書いていたい。窓を開ければ、その穏やかな時間は失われてしまうだろう。

 だが、躊躇いを感じてもいた。ここで何もしないということは、虫たちをこの狭い牢獄に閉じ込めるということだ。虫を家に入れたくないという、利己的で些細な事情から、彼らの残りの生は握りつぶされる。
 その残酷性に気付いていながら、窓に手をかけようともしない自分に気付いて、ぞっとした。

 人はこんなに簡単に、他の命を見殺しに出来る。

 私は人よりも、環境や動物への関心は高い方だ。なのに、地球規模で生態系を壊す活動には憤るのに、目の前の命が死んでいくのを見殺しに出来るのか。穏やかな時間を失いたくないという、些細でどうでも良い事情のために。

 

 残酷な人々を違う次元に切り分け、そうすることで保っていた己の潔白は、日常の一角で脆く崩れ落ちた。

スティーヴ・キャヴァナー『弁護士の血』ネタバレなし感想

 久しぶりのブログ更新、そして作品紹介となる。自分の文章が読まれているという感触がなくて、ブログへのモチベーションが低空飛行だったのだが、最近読者が一人増えたので更新することにした。

 紹介するのは、スティーヴ・ギャヴァナーの『弁護士の血』という小説だ。法廷ものかつギャングものだ。端的に言うと、ハチャメチャに面白く爽快な作品だった。

 主人公は、アメリカの弁護士、エディー・フリン。レストランで朝御飯を食べてトイレで手を洗っていると、ロシアのマフィアに、自分の裁判で弁護士を務めろと脅迫される。マフィアは殺人罪で起訴されており、この後すぐに法廷が開かれるのだという。

 エディーは、とある事件を境に法廷に立つことをやめていた。だから初めは断るが、マフィアは、娘を人質に取っているという。さらに、エディーのジャケットには爆弾が仕込まれており、その起爆装置はマフィアの手に握られていた。彼らの目的は、FBIが匿っている証人――つまり組織の裏切り者を法廷に引き出させ、エディーに巻き付けた爆弾で裁判所ごと吹っ飛ばすこと。断れば命はない。

 エディーは、たとえ断らなかったとしても、このままでは娘も自分も死ぬことになると悟った。弁護士を引き受けるが、彼らに服従したわけではない。裁判が終わる31時間後までに、ロシア人たちの裏を掻き、この爆弾装置を外して娘を助け出すのだ。

 実はこのエディーは、元々詐欺師だったという経歴を持つ。おまけに掏りの技術も一級で、弁護士になる前はその道で悪事を働いていた。この時も、その技術を使って悪人の一人から財布を掏りとる。何か重要な手がかりになるかもしれない――

 この展開だけでも充分面白いが、この作品の見所はまだまだ終わらない。裁判は二日間。彼らの裏をかくためにも、まずは一日目の裁判で、自分を信頼してもらわなければならない。そのためには、一人目の証人の発言を覆すこと。しかし、今までこのマフィアを担当した弁護士は皆「不可能だ」と書類に書き残している。

 証拠は、1枚の1ルーブル紙幣だ。ロシアの古いマフィアは、ここに殺したい人間の名前を書き、ちぎって殺し屋に渡すのだという。ここに書かれた筆跡は紛れもなく被告人のものであると、筆跡鑑定家は証言する。

 エディーは何とこれを弁論で無効にしてみせ、一日目の裁判を終える。方法に興味があれば、本編を読んでみると良い。何とかロシア人たちの信頼を勝ち得たかと思いきや、今度はFBI捜査官が部屋にやって来て、エディーに爆弾について問い詰める。マフィアたちと爆弾について話していたのが知られたのだ。逮捕されそうな勢いだが、ロシア人たちの前で本当のことを話すわけにはいかないし、果たしてどうなるのだ――と、ヒヤヒヤするこんな山場が、この後も幾つも続く。エディーはそんな危機を何とか潜り抜けながら、マフィアどもの陰謀に関する手がかりを拾い集め、娘を助けるための綱渡りを行っていく。

 こういう小説は往々にして、冒頭は面白いのだが、その後失速してしまうケースが多い。だがご心配なく。この作品では、冒頭のワクワクが最後まで続くのだ。ストーリーは常にスリルと謎に満ちていて飽きさせない。アクションシーンにも事欠かないし、ミステリーとしての力量も申し分ないのだ。綿密にして豊かな伏線、魅力溢れるキャラクターが、物語をさらに輝かせている。

 また、これだけ多くの要素を盛り込みながら、裁判でいかに無罪を勝ち取るかというところで最後までエディーの弁護士としての手腕が試されるところが特に良い。法廷を舞台にしている持ち味が活かされている。この作家は元弁護士だというが、そうでなければ書けない法廷の臨場感も絶品だし、新規性やオリジナリティーの点でも満点である。まさに、「エンターテインメント」の真骨頂というべき作品だ。

 文学的な余情を持った作品も素晴らしいが、「エンターテイメント」という枠にここまで全てのエネルギーを注げる作品も最高である。この作品の中では、文学的な要素は、却ってノイズになるだろう。「面白い」以外の感想を求めない強烈な作品というものが、この世には存在する。作品が持つべきなのは、文学的価値か、エンターテイメントとしての面白さなのか、はたまた別の何かなのかのかはここでは議論しない。肝心なのは、何らかのベクトルにおいて、最高のパフォーマンスを発揮出来るかである。

 この作品を読んだことは、私にとっては、「読み手にとって何が最も起こってほしくないことで、また、何が最も面白いのか」を考える良い機会になった。とかく書きたいものがある作家は、ついついそればかりを中心に世界を回してしまい、読み手を置き去りにさせがちだが、どこまでも読み手として面白いものを追求していくこの作品に、作家としての姿勢を問われた気がした。そして思う。一部の人々から、「面白いだけの作品」と遠ざけられてしまうだろう作品の中にこそ、作家としての最も大切な態度が備わっているのだと。

 『弁護士の血』は読者にとっては大変面白い作品だが、ふと作家の立場に立ってみると、考えるのが苦しいことばかりで溢れていることが分かる。主人公の困難な状況は、読者を最も楽しませ、作家を最も苦しめるものだ。この苦しみを少しでも減らしたい、逃げたいという感情を、物語の作り手ならば誰もが感じたことがあるだろう。しかし、逃げずに考え続けていれば、その努力は作品を面白くする隠し味になってくれる。

 この作品の登場人物の口調はアメリカ流で、どいつも洒落たジョークと汚い言葉を使う。そういう雰囲気が苦手でなければ、きっと楽しめることだろう。

 こうした絶賛をブログに書いたのは、続編の邦訳を出してほしいからだ。エディーの活躍の続きを早く読ませて欲しいと思う。

 

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公開日:2022/1/29

最高にユーモラスな男

 ブログの更新に随分と間が空いてしまった。というのも、実は昨年、小生の作品が第100回オール讀物新人賞の最終候補になっていたのだ。刮目せよ、2575編の中の5編である。これは確率で言うと0.0025、サイコロ7個でゾロ目が出る確率と同じである。お察しの通り、あまりな快挙に目が眩み、ごめんなさいちょっと自慢したくなりました。結局賞は取れなかったので、黙って枕を涙で濡らそうと思います。

 そんな訳で、正直ブログどころではなくなってしまった。たとえていうなら、自動販売機を毎日回って、残されたお釣りをちまちま集めるような生活をしていた人間が、コカ・コーラの正社員にスカウトされたようなものである。結局受賞出来なかったのだから、正社員への道は春の夜の夢の如く潰えてしまったのだが、「君には正社員の資質があるから、また次弊社に来てみたまえ」と社長が通りすがりに声を掛けてくれたようなものなので、これからはコカ・コーラを飲みまくって骨を溶かしながら、履歴書に書けるようなことをしたいと思います。


 という訳で、ブログの更新ペースは引き続き徐行運転である。プログの方も、読んでくれる人がいるという実感があれば頑張れるんですがね。(と、いいねを集める帽子を差し出す) まあ、気が向いた時にゆるゆる更新していきたい。


 ところで私は最近新本格ミステリーにハマっている。ミステリーを代表するような作品も、新旧問わず読み漁っていたのだが、そこで、衝撃的な出会いがあった。島田荘司――ひいては御手洗潔である。


 もしも諸君が、「超常現象としか思えない謎を論理的に紐解いていく」ような作品が好きならば、島田荘司の作品はハマる。彼の作品には、精神病患者の書いた夢としか思えない、支離滅裂な記載がある手記が全て現実のものだったと証明していく話だとか、人を喰うと言われる木の謎、戦時中のロシア艦船が湖から忽然と消えてしまったという謎とかが扱われる。また、記憶喪失の男を主人公とした作品もあって(ネタバレになるため1番面白い紹介の仕方が出来ない)、読んでいるとグイグイ引き込まれるのだ。

 そして何より、古今東西の探偵のなかでもトップクラスにクセが強い、御手洗潔が最高なのだ。

 

説明しよう! 御手洗潔とは


 まず諸君は、御手洗潔という不可解な文字列を読んで、「おてあらい、きよし?」と思ったことだろう。これは御手洗潔と出会う人間が一番初めにする反応だ。彼の正しい名前は「みたらいきよし」で、彼は初期は占星術師として活動している。占星術は、水晶を覗き込むタイプの占いではなくて、生年月日からその人の星を割り出し占う方法である。占星術曰く、顔立ちや身体つきにも星が関わっているらしく、御手洗は顔を見ただけで「あなたは朝の九時半頃の生まれですね?」とか、「ちょっと耳を拝見。ふむ、耳たぶは大きい、間違いない、人馬宮だ。」と言い当てたりする。

占星術師の探偵――これだけで充分ユニークだが、そのうえ彼はかなりの風変わり、有り体にいえば変人なのである。たとえば、彼は所構わず演説をぶつ。たとえば喫茶店で、路上駐車で違反切符を取る事について愚痴を言っているカップルが隣にいたら、「いや、そうなんですな!」と立ち上がって、選挙演説さながら思いの丈を語り始めるし、ある実験の前に「時計を机の上に置いて下さい」と指示された時は、「この進んだ世の中、時間を教えてくれる程度の機能しか持たない機械ひとつに、厚かましくも左手を占領させておくなんてバカげた話があるでしょうか?」と言い始め、時計をつける無意味さについて湯水のごとく語り続ける。現実にいれば、最高に面倒くさくて頭がおかしい人なので、友人であり作家の石岡くんは、人前で彼が変な言動を始めると必死で止めるのだが、当の本人は「一体何がいけないんだ?」という顔をしている。

 だが御手洗は、電車でたまに見かけるヤバい人ではなくて、普通の人が考えもしないようなことを深く洞察している故に、行動が、常人の目からは一見すると荒唐無稽に見えてしまうだけなのだ。石岡くんも言っているように、常識が少々ズレているだけで、御手洗が話している内容は結構面白い。

それに御手洗は学者肌で、あらゆる方面に通じる博覧強記の一面も持つ。ことに昔医学部にいたというだけあり、医学の知識が豊富だ。もちろん、彼の生きた昭和当時の知識ではあるが、彼の知識とそれに基づく価値観を聞くと、深い人間味のある人物と対話をしているような感覚になる。

 特に、探偵のくせにこんなことを言うところが、人間的に信頼できる。


「僕はいつも思うんだ。クイズは、作るよりも解く方が何倍もやさしいんだ。作るよりも、解く方が才能を要するなんてパズルはあり得ない。もしあったとすれば、それは偶然の産物、大いに偶然が手助けしているはずだ。だからね、古今東西、巧妙な犯罪や事件に真の芸術家がいるとすれば、それはホームズやポアロなんてやからじゃなく、その犯罪を計画し、実行した勇気ある犯人たちだよ。それなのに昔から、犯人の尻を追っかけてめいっぱいもたもたしたあがく、やっと謎を解いたような連中が天才だ、偉人だともてはやされる。これが道徳配慮でなくてなんだろう」


 冴え渡った推理力だけでなく、こういう視点を持った探偵、ということが私には新鮮だった。

 それに御手洗は、言葉の一言一言の皮肉がウィットに富んでいてオシャレなのだ。たとえば、御手洗との出会いの場面を紹介しよう。これはある男が「御手洗占星学教室」と書かれた古びたビルの一階に入った時、御手洗はこんなことを言う。

 

「いずれにしてももし時間がよろしかったら、少し雑談をしませんか」

 そこからこっちが不安な顔をしたのを見てとると、

「まさかお金を払おうなんて思ってるんじゃないでしょうね?そんなことよりわれわれは友人になりませんか。友人になればお代はタダになる、そこが占い師と医者の違うところです。時間をかけて付き合えば、きっとあなたの生年月日を割り出してみせますよ」

 いきなり友人になりませんかなどといわらて、いくらか照れた。でもそれは、こちらとしても望むところだった。まずはステレオのことをきいてみた。

 御手洗は、音楽となるとね、僕はキチガイなんですよと言った。思わずへえと言った。音楽とわざわざ断らなくてもそんなふうに見えたからだ。

 
 友人になればお代はタダになる、そこが占い師と医者の違うところです。何度でも繰り返したくなる台詞だ。出会い頭にこんなことを言えるのが良い。

 他にも、たとえば石岡くんととある少年と高級レストランに行くことになった時、石岡くんがうろたえて「何?そんな店を知ってるのか?そんな店じゃ、ネクタイがなきゃ入れないだろう?」と言うと、こともなげに「物を食べようっていうのに喉を締めつけてりゃ世話はない。必要ないね」と答えるのだ。もはや、小憎いほどのセンスである。彼は確かに変人だが、アニメ的な「変人」ではなく、風変わりだが「いうる」、妙にリアリティーがあるところが最高だ。

 私はこの男と出会った時、猛烈に思った。なんと魅力的な人なのだろうと! どうにかして彼の友人になりたいと! 石岡くんは、御手洗の女性人気が高いことを不思議がっていたが、小生としては至極当然である。御手洗には抜きん出たカリスマ性がある。彼ほどトークのセンスがあり、引き出しが豊富で、気遣いに満ち、一緒にいて楽しい人間はそうそうお目にかからない。その上御手洗には、「彼の良さが分かるのは私だけ」と思わせてしまう悪魔的魅力がある。こんな人間の周りに人が集まらない訳がないではないか!

諸君も、初めは、「こんな頭のおかしい人が気遣い上手……?」と疑問符を浮かべるかもしれないが、大丈夫。御手洗の気遣いスキルは、読めば分かる。それでも分からなかったら、ネタバレ込みで説明するのでその機会を設けよう。

 

 

作品について

 

 これだけ語っておきながら、お恥ずかしいことに、私はまだ島田荘司の本を10冊足らずしか読んでいない。『占星術殺人事件』で背筋が震撼したその日の夜、Amazonで著作を20冊注文したのだが、それをまだ読みきれていないのだ。読んだらいつか御手洗潔の未読の本がなくなってしまう……という気持ちが、手をつけるのを遅くしている。やはり好きな作家の本は、少しずつ大事に味わいたい。

 そんな貧弱な読書量で大変恐縮だが、やはり真っ先に薦めたいのは『占星術殺人事件』だ。ゴリゴリの猟奇殺人事件なので、本格ミステリーに不慣れな人は、その重厚な雰囲気と異常性にやや身構えてしまうかもしれないが、少なくとも、本格ミステリーに少し苦手意識のあったかつての小生では読むことが出来た。そして、あまりの面白さに、最後は「すごい……」と呟きながらページを繰った。ここに出てくるトリックは一級品であり、ミステリーを語る上では欠かせない一冊だ。

 こんな派手なトリックをデビュー作にして、果たしてこの後この作家はこの作品を越えられるのか?と不安になるが、そんなものは完全に杞憂に終わる。『眩暈』はこれを上回ってくるからだ。『眩暈』は占星術殺人事件を読んでからの方がいっそう楽しめると思うので、その後読むことをオススメする。これが、冒頭でいった「精神病患者としか思えない人が書いた手記を論理的に紐解いていく」作品なのだが、この謎解きは圧巻だった。『眩暈』は島田荘司を代表するような作品にはなっていないけれど、この作品はもっと評価されてもいいのではないかと個人的には思う。(※ちなみにこの後、骨格となるトリックがほぼ同じ作品を見つけてしまったが、島田荘司へのオマージュなのか、偶然ネタが被ってしまっただけなのかは分からない。いずれにせよ、その作品も名作とファンの間では名高いようである)

 本格ミステリーに不慣れなら、まずは『異邦の騎士』(新装改訂版)を薦めたい。記憶喪失の男が登場するのだが、島田荘司の痛快な文章が至る所にあって引き込まれる。この作品は、凡手が書いたら凡作に終わったものだと私は思う。だが、島田荘司の驚異的な筆力をもってして、この作品は彼を代表する名作になっている。平易な言葉を使いながら、読者を引き込み、真に迫った緊張感と軽快な場面とを書き分けている。


 また、わざわざ断るまでもないことかもしれないが、この作品の時代背景が戦後であることをご承知おき願いたい。読者の感覚にとっては、既に古びた価値観が登場するかもしれないが、それも含め、昭和の空気感を味わって欲しいと思う。

 

 

島田荘司について

 島田荘司といえば、ミステリー界のレジェンド的存在だが、彼の作品は地の文や他のシーンもオシャレで読みどころがある。たとえば、ある男が恋人に御手洗のことを説明するのが下記のシーンである。

 

「名前も面白いんだけど、人間も面白いぜ、会ってみて損は無いよ」

「私、興味無いわ」

「どうして、絶対気に入るよ。笑えるぜ」

「それより、どうして敬介さんこの頃帰りが遅いの?」

「え?」

「毎日そのおトイレさんのとこに寄ってるの?」

「おトイレさん……」

「私と会ってるより楽しいの?」

「いや、別にそういうわけじゃない。比べられないよ」

「私とその人とどっちが大事なの?」

 


 あまりにも面白すぎて、電車の中で吹きだしてしまった。真面目なシーンで、おトイレさんて。取り出したペンで本に「思わず吹き出してしまった」と本にも書き込んだ。

 他にも、『眩暈』のクライマックス。いよいよ犯人を追い詰め、ベランダから室内に侵入しようとするシーンでは……


 (御手洗は)ガラス扉を両手で開けようとしている。しかしロックがされていた。隣の扉に移る。こちらも動かない。さっと屈むと、足元にあった植木鉢を持ち上げ、目の前のガラスに叩きつけた。こういう時のために、しょっちゅう部屋のコップを割って練習しているのかもしれない。とてつもない音がしてガラスには大きな穴があき、御手洗はここから右手を差し込んで、中の半月を廻した。


 このクライマックスの大事なシーンで、ユーモアを差し込むセンスよ。私はもうすっかり島田荘司のファンになった。


 他の最高にユーモラスなミステリー作家をあげよと言われたら、私は伊坂幸太郎をあげる。何を隠そう、私は伊坂幸太郎の大のファンで、この島田荘司のことも、彼のエッセイを通じて知ったのである。伊坂さんが好きな作家なら読んでみるかというテンションで手に取ったのだが、島田荘司を読んだ後に伊坂幸太郎のエッセイを読み直して、「あー!やっぱり伊坂さんは分かってる!」と思ってもっと好きになった。

 伊坂幸太郎作品には、唐突に謎の雑学を延々と話し始める奴が登場するが、御手洗潔もそいつに似ている。いや、そいつが御手洗潔に似ているというべきか? もちろん、私は伊坂幸太郎の作品に出てくる、唐突に謎の雑学を延々と話し始める奴が大好きである。『陽気なギャングが地球を回す』シリーズには、仲間が強盗をしている脇で、フロアに集めた人質に面白い話を披露して、一同をぽかんとさせるという役割の響野という男がいるが、あいつは特に最高だ。

 いつか伊坂幸太郎作品の良さについても、語る機会を設けたい。


 最後に! この御手洗潔について、どうか映画で見て済まそうとはしないで欲しい。映画を決して否定したい訳ではないが、残念ながらあれは御手洗潔ではない。彼の白骨だけが残った別物のコンテンツである。といっても、小生は冒頭3分で「ああこれは御手洗ではないな」と思って消してしまったから、その後素晴らしいシーンもあったのかもしれないが、続きを見なかったことに後悔はない。やはり御手洗潔といえば、原作の変人ぶりが愛しいのである。御手洗のあの頭がぶっ飛んだところが削ぎ落とされてただのイケメン名探偵になったら、もう御手洗潔ではない。

 これを読んで、さぞ読者は「あー、篠宮はこういうのがタイプなのね。ふーん」と思ったかもしれないが、それは少し違う。私は彼のカリスマ性の前にただひれ伏しただけである。諸君はカリスマと出会った時、その人物を周囲に賛美せずに済むだろうか? 彼と友達でいることを自慢せずにいられるだろうか?  いや、そんなことは不可能だ。何も知らない友人に、「私の知り合いにはこんな変な奴がいてね」と口を滑らさずにはいられないだろう。カリスマにはそうさせるだけの力がある。

 この私に筆を取らせたということは、それだけ彼が、本物のカリスマ――すなわち天才だったということだ。

 

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公開日:2021/4/29

気が狂っているマンガ、福本伸行の『アカギ』 ※ネタバレなし

 「気が狂っている」という理由で好きな漫画がある。福本伸行さんの『アカギ』だ。この漫画を読むために、賭け事を一切しないこの私が麻雀のルールを勉強し、仕事中に「両面コピー」を「リャンメンコピー」と読むくらいにはハマってしまった。

 とはいえ『カイジ』を、ましてや『アカギ』を好きだと言うと、周りの人にはビックリされる。それもその筈、あまりの知名度に忘れがちであるが、福本漫画は徹頭徹尾、煙草と雀荘とヤクザの匂いしかしない賭博漫画なのだ。まず、女が全くといっていいほど出てこない。ちゃんと名前が与えられている女は『カイジ』に出てくる「美心(みここ)」だけで、しかもこの美心もブサイク。(作画だけじゃなくて、本編中でもブサイク扱いされている) しかもこれが「残念なブサイク」というやつで、自分のことを可愛いと勘違いしちゃってる子なのだ。

 他の登場人物も、主人公を除けば中年のオジサンばかり。そしてラスボスは決まって、財を築くことに飽いて、弱者をいたぶり殺すことにしか楽しみを見出だせなくなった、気の狂ったジジイ。これの笑い声は「コキキキキ」と来ている。このジジイたちに、ほぼスカンピンの若者が賭博を打つのが、『アカギ』であり『ゼロ』であり『カイジ』である。

 福本さんの漫画で一番有名な特徴は、登場人物の鋭利なアゴだろうが、他にも、面白いというかあまりにもぶっ飛んでることで有名なのは、その悪魔じみた発想である。たとえば『カイジ』には、二つの超高層ビルの間に、電流を流した鉄骨を渡し、その上を若者に渡らせるところを腐った金持ちが観賞するシーンがある。普通に「ぎょえ~」と思う一方で、その発想の斬新さと狂気にはほとほと感心してしまう。

 だが勘違いしないで欲しいのは、福本さんの漫画はサディスティックなものを書くのが主眼ではないということだ。悪戯に人を惨殺するシーンもなければ、背徳的な闇を纏って浮かび上がる主人公が、ローアングルから格好良く撮られる訳でもない。そういう、暗いだけの作品とは「別」なのだ。

 私には賭け事の才能は絶無だが、それでも楽しめるこの福本漫画の、それも特に『アカギ』の魅力を語らせていただきたいと思う。

 

『アカギ』の魅力

 私がこの漫画を好きな最大の理由は、この『アカギ』が、書きがたきを書いた作品だからだ。

 まず、このブログの読者に質問したい。

 物語の中で、最も描くのが難しいタイプの人間とは何だと思う?

 なおこれは、小説、漫画、アニメ、映画、ドラマ、全てのコンテンツに共通するものである。少し考えて答えが出たら、スクロールして欲しい。

 

 答えは簡単だ。

 「天才」である。

 これを納得してもらうには、ミステリーを思い浮かべてもらうのが分かりやすい。作者が探偵や刑事の推理力を常に上回っていなければならないのは自明のことである。作者が思い付かないトリックを犯人が仕掛けられる筈はないし、畢竟刑事にも解けるわけがない。作者は、鋭い着眼点を持った刑事にヒントを見つけてもらえるよう、作品の中で証拠をちりばめなければならないし、それをする能力が求められる。

 とはいえ、"作者が作中人物の能力を上回る"というのは、必ずしも「同じ状況におかれた時に発揮される能力」と同一ではない。もし同一であるならば、ミステリー作家はすべからく敏腕刑事を兼任している筈だ。名作シリーズを書いている推理作家が本物の殺人現場に居合わせたからといって、彼が関係者を全員一部屋に集めて解説を出来るかといったら、それはないだろう。

 だが、天才と同一の能力を持たなくとも、天才を描くためには、天才の着眼点とその能力を知っている必要はある。「すごい」と読者に思ってもらい、「これは天才だ」と唖然として貰わなければならないのだ。そのためにどんな仕掛けを張るかが、作者の腕の見せ所である。

 この努力を放棄した作品は、「IQ」の数値を持ち出してみたり、「東大首席合格」といった肩書きを並べてみたり、「円周率を何桁言える」といって能力を言語化したりするが、こんな説明には何の意味もない。これは、「25歳男、営業マン」といった説明と本質的に何も変わらないのだ。

 天才を表現するためには、「この人には観察力がありますよ」と取り巻きの口を借りて言うだけでは充分ではなくて、読者に「この人、観察力ある!」と思わせる必要がある。それが出来る作品は少ないが、成しとければ、その作品はとんでもない力を持つことになる。

 すなわち『アカギ』である。

 アカギを読むにはやはり麻雀のルールを知っておいた方がいい。そして、自分である程度打って、「普通ならこう打つ」という感覚が身に付いているとなお良い。その後に『アカギ』を読めば、彼の化け物じみた能力を理解できる筈だ。私も、『アカギ』を読んで心底震え上がった。

 「これは凡人の発想ではない」、と。

 打ち筋も、我々常人の域からは全くの不合理である。どうして確率の高い方で待たない?何故此処でこんなことを?え、その一枚を捨ててしまうの? 何故これで待つ? 読んでいて、「?」と思うことだらけである。

 普通の人が考える理や秤を遥かに越えている、一見「気が狂っている」としか言い様のない打ち筋だが、その背後には、冷静な観察と論理と、勝負師としての資質がしっかりと裏打ちされている。この描き方がとんでもなく上手いのだ。その魅力は本編でじっくりと味わって欲しいから、此処ではネタバラシを一切しないで、その魅力の部分だけを簡単に伝えよう。

 アカギの抜きん出ているところは、他人の心理への観察観と、そこから「生きた理」を組み立てる能力である。打ち方から相手がどんな人間かまで見抜き、勝つための戦略を組み立てる。後で彼の解説を聞くと、ただただ「すごい!」の一言ばかりだ。彼には、「天才」という賛辞よりも、「鬼才」の一言が似つかわしい。その天才が、丁寧に描かれているのがまた素晴らしい。「うおー!此処であれをしたのは、そういう意味があったのかー!」と、一局終わった後は推理漫画さながらスッキリしてしまうのだ。

 また、リスクに身を投じる潔さも、アカギを語る上では外せない。アカギの戦略は、100%の安全を保証するものではない。しかし彼は、「もし考えた通りにならなかったらどうしよう」と一切考えることもなく、己の判断に身を委ねられるから、天才でいられるのだ。本編の冒頭でも、「アカギの最も抜きん出た能力は、自分の判断を信じる能力だ」と語られている。「揺れない心」、これこそがアカギを語る上でのキーワードである。

 大金が賭けられていたり、負ければ腕一本失うなんて状況で麻雀を打てば、弱い方へ心が流れてしまったり、判断がぶれてしまうのが普通である。アカギには一切それがない。彼は何にも執着しない。自分の命さえ、惜しもうとしないのだ。

 それは一見、自暴自棄の死にたがりのようにも思える。だが、アカギはその死にたがりとは一線を画する。彼は、勝つために死線を越えているのだ。自分の命を削るが勝ちの目を増やす行為と、安全だが1%でも勝ちの目が減ってしまう行為を秤に掛けたら、彼は迷わず勝ちを掴みに行く。その潔さに、彼の麻雀を見守っている人々はすっかり魅せられてしまう。

 この感性は、「狂気」という言葉で作中で表現される。アカギは語る。「俺は昔から、生きているという実感が薄かった」と。だからこそ彼は、命を捨てることにも恐れない。その彼が、「生きている」という実感を得るシーンもまた感動的なのだが、ともあれ、そうした常人とはかけ離れた感性こそが彼の強さの秘訣になっている。天才に必要なのは、高い能力だけではなく、それを裏付ける感性――即ち「狂気」が必要なのだと感じられる。

 普通に枠の中で生きているうちは、……いや、その枠から衝動的に外れたところで、「凡人」である限りは「狂気」には辿り着けない。凡人のやけっぱち麻雀は、アカギの麻雀には絶対に太刀打ちできないのだ。その決定的な違いは、身体の中に狂気を秘められるかどうかにある。

 この「狂気」を敢えて言葉で表現するとすれば、普通の人間が当たり前に抱く何かの欠落でもあるのかもしれない。アカギの場合は、自分の命や金銭への執着心だろう。もちろん、天才というのはあらゆる分野に出現するから、傑出した才と平凡な性格が同居する場合もあるけれど、アカギの場合は、この狂気なしにはアカギはアカギではいられない。

 魂まで普通の感性が染みついた人間には、決して到達できない境地を持っている天才。そういうアカギの気が狂ったところが、私はたまらなく好きなのである。

 

 

おまけ カイジの魅力

 狂った感性を持つ天才を真似することは凡人には出来ない、と私は思う。この感性というものは、魂まで染みついたものだからだ。アカギが感じることのない死への恐怖を、凡人が感じずにいることは不可能である。

 だが、同時に思う。この天才を、美しさで越えられる方法が一つだけある、と。

 それは、不完全な心で、その不完全さを押し切った瞬間である。この漫画を例にとるならば、死の恐怖で震えているのにもなお、勇気を奮って前へ突き進むことが出来れば、その瞬間、その美しさはこの天才を凌ぐと私は思う。

 『カイジ』は、平凡な心の持ち主である。博徒らしい運や頭脳はあるが、ここぞという時に緊張のあまりにミスをしてしまったり、簡単にパニックにもなる。お金があれば後先考えずに豪遊もするし、知り合いの家に居候してゴロゴロ怠ける。「揺れない心」を持ち、天性の博才とそれを奮う資質に恵まれているアカギやゼロと違い、ごくフツーのギャンブル廃人である。

 そんな彼は、信頼していた人間に裏切られてかなりの辛酸を舐めている。彼はそのたびに自分の甘さを後悔して、人間の浅ましさを心底嫌う。

 しかし、彼は人を信じることをやめない。彼は「人を信じるぞ」と決意している訳では全くないし、むしろ彼は、「人なんて信じられない」と考えているが、それでも、いつの間にか彼の周りには仲間がいる。慕われている。それは彼が、本質的に人を嫌っていないからだ。彼は、人間がいつか裏切ることを知っているし、人間の汚く弱い面もうんざりするほど目の当たりにしているが、それでもなお、人間を嫌っていないのだ。

 人を躊躇いもなく信じられる感性の持ち主も、もちろん素晴らしい。しかし、一方で、散々辛酸を舐めてるのに、それでも気付けば人を信じている人間は、前者を凌ぐほど立派ではないかと思う。ギャンブル狂でヒモ生活をしていても、この部分は何にも代えがたいカイジの高潔な部分である。

 「ざわざわ……」しか知らなかった人も、是非『カイジ』を一読して欲しい。

 

 

 

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公開日:2020/11/1

小説を完結できない。苦しいけど、書くべきなのか?と思う人へ

「小説が書き上がらない人の特徴」というツイートが回ってきた。特徴として挙がっているのは、書くことを面倒だと思ってしまうとか、まあそんな感じのことだ。他にも、「小説 完結しない」といったワードで検索すると、出るわ出るわ、「完結するにはどうしたら良いのか?」「完結しない小説には価値がない」などなどの記事。

小説を頑張って書こう、としている人が多い。それも、「未完成の傑作よりも完結した駄作」という言葉がある通り、「頑張って完結させる」というのは通念になっている。確かに、途中で放り出したものよりも、完結済みの方が良いのは間違いがない。

でも実は私は、そんなに無理して小説を書かなくても良いんじゃないかと思っている。小説を書くのは、どんなに楽しさを装っても、やはりどこかでは苦しい作業だ。かく言う私も、執筆を面倒くさいと感じることもあるし、あの宮部みゆきさんでさえ、作品を書くよりもゲームに熱中してしまうこともあるという。書きたくないなあという思いや、途中で投げ出してしまいたいという感情は、作品と真面目に向き合っていたら、何処かでは突き当たる必然の壁だ。だからこそ、苦しい時でも書くという行為を放棄しないことが、私たちとプロ作家の違いになっている。しかし、「じゃあ、今までだらけていた時間を削って小説書こう」とがむしゃらになるよりも前に、まず、考えて欲しい。

「本当に、この苦しさに耐える必要があるのか?」と。

必死になっている人はよく忘れがちだが、小説は、別に試験勉強ではないのだ。

小説を書くことは、親や教師に強制されている訳ではない。

達成しなければ、社会的に失ってしまうものも基本的にない。

あくまで、自分が勝手に立てて、勝手に成し遂げようとしている目標だ。

別に、小説を書く人を縛る鎖なんて実際には何もないのだ。人気作家にでもなれば、ファンのために書かなきゃ、ということにもなるけど、大丈夫。そんな一握りの作家でもない限り、小説家(或いは小説家未満)なんて、辞めようと思えばすぐに辞められる。


もしもあなたが、小説を書き上げられなくて苦しいのだとしたら、それは努力が出来ないせいではなくて、努力が出来ないのに、夢を諦められないことなのではないかと思う。

  

この文章を読んで、つらいと思われたかもしれない。作家にもなっていないお前に何が分かる、とご不快に思われたら申し訳ない。私も、消えたところで気に掛けてくれるファンなど持たない人間の一人だ。でも、だからこそこの記事を書いている。自分の作品を求めてくれる人がいない作家未満は、自分の中に依って立つ芯を持たない限り、作品を書き続けられないのだ。

作品を書けない人の本質は、「面倒くさい」と思ってしまうからでも、続ける意思が足りないからでもない。自分の中に、「面倒くさい」を越えられる思いが、ないことなのだと思う。

そんな人に、贈りたいシーンがある。

 

上橋菜穂子さんの『天と地の守り人』の1シーンだ。この『天と地の守り人』の核になっているのは、新ヨゴ皇国の皇太子、チャグムである。自国がタルシュ帝国という大国に侵略される危機を救うため、チャグムは隣国に助けを求めようと考えるが、新ヨゴ皇国の帝は同盟に反対しているため、彼は、自らが死んだことにして帝の目を欺き、人目を忍んで隣国を目指す旅に出るのだ。

それを助けるのが、女用心棒のバルサである。バルサは、同盟への希望が断たれて絶望するチャグムに対して、ある夜、こう語りかける。

 

「あんたを探し始めたとき、あんたに会えたら言ってやろうと思っていた。

皇太子として葬式をあげられちまったなんて、天が下さった贈り物だ。ようやく、くだらない鎖から解き放されたね、おめでとう、ってさ。」

 

「新ヨゴが滅びたって、それはあんたの責任じゃない。――国が滅びる崖っぷちにいるのに、隣国に助けを乞おうとしない、かたくななあんたの父親の責任だし、帝をいさめることもできない周りの連中の責任だよ。そうじゃないかい?

大の大人が雁首並べて、動かせないでいる運命を、わずか十六のあんたが、なんで、全部背負い込まねばならない?

ここまでがんばったんだ。八方塞がりだと思うなら、肩の荷をおろすのは悪いことじゃない。誰一人、あんたを責められる者なんぞいない。――楽になれる道は、あんたの目の前にあるんだよ」

 

バルサは、チャグムに対し、成るかも分からない同盟を結ぶために奔走する必要はないと伝える。このまま、彼が民草に紛れてしまう道を、チャグムに示したのだ。

 

チャグムは、衝撃を受ける。「心をおおっていた暗い藪を、ばっさりと切り払われてしまったような気分」で、「光がさしてきて、風がはいってきたような心地だったけれど、すっ裸にされてしまったような、うすら寒い、おちつかなさ」を感じた。

チャグムは、皇太子の身分をずっと毛嫌いしていた。宮廷など出て、バルサと旅をしたいとずっと思い続けていた少年だった。だから、このバルサの言葉に心を揺らすのである。

 

だが、チャグムは、静かな声で言う。

 

「……その道に行っても、楽にはなれない」

 

「わたしが背負っているのは、重荷じゃなくて……夢だから」

 

バルサは思う。

 

民が不幸になれば、チャグムもまた不幸になる。自分のように、国などどうでもいいとは、チャグムはけっして思えないだろう。

この道を――峻烈な雪の峰を歩むような厳しい道を、チャグムは進んでいくしかない。

その道のむこうにしか、チャグムが心から笑顔をうかべられる場所は、ないのだ。

 

私はこのシーンに、激しく心を揺さぶられた。

自分の生きたいように生きられる道は、すぐ近くから伸びている。

それでも、未熟で愛らしかった子供の殻を脱ぎ捨てて、チャグムは、身に否応なく課せられた立場を受け容れ、頑なに拒んでいた使命を全うしようとする。しかも彼を突き動かしているのは、義務感ではなく「夢」であり、「心から笑顔を浮かべられる場所」なのである。

 

 

小説を書く人にも、きっと同じことが言える。

小説を書くのは、険しくて、大変な作業だ。時には、チャグムが隣国と新ヨゴとの同盟の道を断たれたように、途中でどうにもならなくなってしまうことだってある。投げ出す以外の方法がないように見えることもある。

それでも、この峻烈な道を越えない限り、「心から笑顔を浮かべられる場所」がないと思うから、あなたは筆を執るのではないか。

小説を書かなければならないしがらみなど、物理的には何もなく、いつでも捨て去れる環境にあってもなお、自由になろうとしないのは、それが、自分の信じた夢だからではないか。

 

大丈夫。その夢を心から信じることが出来るのなら、あなたは、小説を書き続けられるだろう。

 

 

 

(出典)
上橋菜穂子天と地の守り人』第一部(偕成社、2008年11月)

https://www.amazon.co.jp/dp/4037500906/

 

 

 

定期入れの宝物、創作の糧

「篠宮さんのブログって、変な人の日記って感じだよね」

この前、高校の先輩からいきなりそう言われた。「えっ、読んでたんですか」と、私はビックリ仰天度肝を抜いた。それに、よりにもよってそんな風に思われていたとは心外である。だがしかし、「作家のブログって感じの雰囲気があって、まあ好きだけど」と付け加えられたので、少し嬉しくなった。

今日は、その「変な人」の、創作活動での思い出について書こうと思う。

 

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3年前

時は3年前の秋に遡る。私が、「篠宮深琴」という名前で、日本ファンタジーノベル大賞の最終候補となった時だ。

https://www.shinchosha.co.jp/prizes/fantasy/2017/news/20171005.html

それを知らせる電話は9月、HPで候補者が公表される前に掛かってきた。私はカンボジアマングローブの植林をしていたため、電話に出られなかったのだが、帰国後、改めてこちらからお電話を差し上げた。お話ししたのは新潮社の編集者で、早速、日程を合わせて神楽坂で会うことになった。

そうしたことの知識が全くなく、初めて知ったのだが、最終候補まで残った作家志望には、担当編集がつくことになっているらしい。それで、編集会議でどんな意見が出たとか、編集者の目線で読んでみてどうだったとか、色々教えてもらえるのだ。受賞後の段取りをスムーズにするためにも、お互い顔を合わせて話しておく必要があるのだろう。

私の担当となったのは、Mさんという若い男の方だった。差し出された名刺は、文字のみの非常にシンプルなもので、新潮社らしいデザインだと何となく思う。大学生だった私は、代わりに渡すものもなく、名刺の置き場に困って、定期入れにしまった。就活を始める前だったので、満足にビジネスマナーも知らなかったのだ。

Mさんは落ち着いた口調で喋る人で、私が質問したことにも丁寧に答えてくれた。それでいて、指摘することは非常に的確で、分からないことはちゃんと分からないと言ってくれる人だった。

私が作家になったら、この人と作品を作っていくんだと思った。それはすごく素敵なことだった。この人と一緒に仕事をする未来を夢想しながら、書きかけの小説を打っていた。

しかし、結果発表の日に掛かってきた電話は、落選を伝えるものだった。電話越しに、Mさんが言葉を選ぶのが分かって、自分の実力のなさを呪いたくなった。

その後一回、新潮社で打ち合わせをした。もうこの人と会うのも最後かな、と思った。落ち込む私を励ますためか、「また何処かに応募するなら、僕も作品読みますよ」とMさんは言ってくれた。編集者の忙しさから考えても破格の親切だったと、今でも思っている。

私は勢い込んで、「また来年も、この賞に応募します!」と宣言したけれど、Mさんは、「他にもたくさん賞はあるんだし、他の出版社の賞にもチャレンジしてみては」と、立場から考えたら言って良いのか微妙なことまで言いながら、笑ってくれた。

 

翌年

その翌年、私は就活をしながら執筆を進めて、作品を完成させた。それからすぐに、Mさんに連絡して、新潮社まで原稿を届けに行った。Mさんが読む時間を1ヶ月、自分の手直しを1ヶ月と見積もっていたから、確か、あの時は4月だったと思う。私はスーツ姿で、この訪問の後は、面接の予定も控えていた。私は就活市場であまり優秀な人材ではなかったので、1日に3社面接をしても、内定が1つも貰えていなかった。

Mさんは原稿を受け取ると、また連絡します、と言ってすぐに別れた。だが、連絡はすぐには来なかった。忙しいから無理もない。そのために、1ヶ月の時間を取ったのだ。

とはいえ、ファンタジーノベル大賞の〆切は6月末である。内心、首を長くして待っていたある日、突然、Mさんから電話が掛かってきた。電車に乗ろうとしていたところだったので、私は慌ててホームに降りて、駅のホームで講評を受けた。メモを膝の上に取りだし、言葉を必死で写しとった。返事をする声が徐々に掠れていくことに、気付かれないよう、わざと声を張った。

その時胸を去来したのは、忙しい時間を縫って私の文章を読んでくれたことの感謝と、身の置き所のない心苦しさだった。作家でもない人間が書いた小説16万字を読むこと、それをきちんと講評することは、大変な労力だったろう。その労力をかけてくれたのは、Mさんの編集者としての厚意であり、業務ではないのだ。

この人の仕事の時間をもらう資格が、私にはない。その事実が、私を深く打ちのめした。

この電話も、おそらく隙間の時間を縫って掛けてくれたのだろう。その気持ちが本当に有り難かったからこそ、いっそう、つらかった。Mさんに仕事以外の時間を使わせてしまったことが申し訳なく、その有り難い厚意にただ甘えるしかない、自らの無力が身に染みた。

厚意で私の作品を読んでくれたこの人に、これからは、仕事として作品を読んでもらいたいと思った。仕事の時間を使って、ちゃんと向かい合って打ち合わせをしたい。一人の作家と、そして編集者として。

 

就活後

就活は、6月になっても終わらなかった。最終的に就活をやめたのは7月半ばだったから、ファンノベの原稿は、ギリギリの精神状態とタイムスケジュールで仕上げることになった。でも、最善は尽くしたつもりだ。Mさんと友人のアドバイスを取り入れて、何とか送付まで持っていった。

これがドラマならめでたく大賞受賞となるのだろうが、結果は惨敗。最終まで届かなかった。落ちたのがショック過ぎて、自分の作品が何処まで通っていたのか、正直覚えていない。

その時書きかけだった原稿の進みも、止まった。書いても書いても、前に進んでいかないような閉塞感に苛まれ、こめかみに指を食い込ませながら、点滅するカーソルをただ眺める日々が続いた。

小野不由美さんがデビューしたファンタジーノベル大賞を取るのが私の夢だったが、これからは切り替えて、別の賞にも応募しようと思った。そして作家になった後、あの編集さんに連絡を取ろう、と。

そう決意して筆を執り、がむしゃらに書き続けて、はや三年が経ってしまった。私が実力不足で足掻いている間に、あの親切な編集の人は、私のことなどもう忘れてしまったかもしれない。だが私は、あの人のことを忘れたことは一度もない。

心が折れそうになった時、私は、定期入れから一枚の名刺を取り出す。そして、シンプルな装飾のそれを眺めては、再び、このアドレスに連絡をする日のために、パソコンを立ち上げるのだ。

 

公開日:2020/7/17

「スマホのカメラで良くない?」と言われる時代に、重くて高いカメラを買った理由

「写真を撮る」という行為が、いつの間にか生活の一部になっていませんか?

 私がスマートフォン世代だから尚更そうなのかもしれませんが、友達と出掛けた後には、自撮りと料理の写真を撮るのが普通です。旅行先でも、花火大会などのイベントでも、ほとんどの肉眼の前にはスマートフォンが掲げられています。確かにスマートフォンのカメラは性能が向上しましたから、「すごく綺麗に撮れた!」と興奮できることも多くなりました。

 スマートフォンのカメラユーザーの皆さん、思いませんか?

「一眼レフなんて、もういらなくない?」 と。

 携帯に高性能のカメラがついているなら、何十万円も払って、ごつくて重たいカメラを買う必要なんてありませんよね。一眼レフは肩が凝りますし、レンズを何本も持ち運んだら嵩張って仕方がありません。

 写真は好きだけど、カメラを買うほどじゃない。iPhoneで充分、と思っている人は、かなり多いと思います。正直違いもよく分からない。どうしてスマホでも写真が撮れるこの時代に、何十万もするカメラを買うの? と。

 私もかつて、そう思っていた人間でした。今では、――本数で好感度を表すのは上品ではありませんが――カメラを2台と、レンズを5本取り揃えるくらいにはカメラが好きでいます。撮りたいと思った時に撮れないものはない中級者、といったレベルです。同じ本数の人たちは、それなりにこだわりを持って写真を撮っている人たちが多いです。

 私のカメラの腕前は正直突出している訳ではなく、我ながら下手でうんざりするんですが、カメラが好きという気持ちならば、人並みにはあるつもりです。ちなみに私のカメラは、軽量で取り回しやすいミラーレス1台と、Nikonのハイアマチュア機と呼ばれるD750というモデルです。私が買った当時は最新機だったので、本体だけで15万以上はしました。

 スマートフォンの付属品のカメラと、15万のフルサイズカメラの性能が違うことも、くどくど説明されなくても、直感的に理解できることでしょう。こうした性能の違いは、インターネット上にもたくさん記事が出ているので此処では触れません。専門用語も細々と出てきますが、要約すると、「撮れるものが増える」、「撮りたいように取れる(表現幅が広がる)」点が、一眼レフ(或いはフルサイズ)の特長となります。

 ですが、こうした性能の違いを理解できなくても構いません。この記事を読んだ後は、スマートフォンのカメラと一眼レフカメラの違いが、感覚的に分かるようになっていると思います。

 

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挿絵:グアムにて

 

写真は芸術か?

 お恥ずかしながら、まずは、カメラを始める前の私の認識をお話しましょう。

 以前の私は、カメラは「現実の複製」だと思っていました。絵と違って、カメラは見たものをそのまま切り取るものですし、所詮は機械です。同じ機材・設定を使えば、理論上は誰でも同じものが撮れる筈ですので、プロと素人の違いは、機材の質と経験の違いくらいとしか認識していませんでした。

 なので写真は、その人にしか出来ないものを演出するのが難しいジャンル、言い換えれば、再現性が高いジャンルだと思っていた訳です。再現性が高いのは実験に求められる要件ですが、芸術に求められる要件ではありません。むしろ、再現性が限りなくゼロに近く、「その人にしか出来ない」ようなものが芸術として相応しい、といった社会通念から、写真を芸術と呼べるのか、少し疑問があったのです。

 今ならば、それははっきり違うと言えます。考えが変わったのは、カメラを初めて程ない頃、プロのカメラマンの方とたまたま知り合い、別の女性と3人で、お台場まで写真を撮りに行った時のことです。私と女の人はOLYMPUSの同じ機種を持っていたので、プロの方は私たちに合わせて、OLYMPUSのミラーレス一眼PENを持ってきました。細かい違いはあるにせよ、私の持っているOM-D E-M10と、スペックはほぼ同じです。

 お台場の夜景を撮るつもりでしたが、その日は偶然、30分だけ花火が打ち上がる催しを行うようでした。レインボーブリッジと花火を一緒に写そう! と盛り上がり、同じ場所に三脚を立てました。

 何枚かシャッターを切りましたが、上手く撮れないな~と思い、隣にいたカメラマンの方の様子を覗き込んで、驚きました。

 目を見張るほどの出来栄えでした。大輪の花火が程よく映り込み、花火の高低差も絶妙で、空のグラデーションも美しいのです。そして、明るいところが明るすぎず、赤いところが赤すぎず、飽和が起こる前のちょうど良いタイミングで、シャッターを切っておりました。

 その人にやり方を少し教えてもらって撮ったのがこちらになりますので、これよりもすごいもの、と思っていただけるとイメージが付くかもしれません。

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 同じ場所で、同じようなスペックのカメラで撮っているのに、どうして!

 私は愕然としました。その人が、せめて違うスペックのカメラを使っていたのであれば性能のせいにすること出来ましたが、ほとんど同じカメラなのでその言い訳も出来ません。

 当時の私は、花火撮影ではシャッタースピードを長めにするべきであるとか、露出を低くするべきであるとか、確かにそうした専門的な知識がありませんでした。でも、そうした知識を持った今の私がその人の隣に三脚を立てたとしても、やはり同じ写真は撮れないと、素直にそう思います。

 性能の良いカメラは、良い写真とイコールではありません。特に高性能なカメラは、いうなれば筆のようなもので、自分の手で動かさない限り何も生み出してはくれません。良い写真とは、まぐれ的に撮れることはあっても、努力をしない限りは常に生み出すことが出来ないものなのです。

 スマートフォンのカメラは、好みでフィルターを掛けることはあっても、求められることのほとんどは、ボタンを押すだけです。一方一眼レフ機は、工夫や機材次第で表情がいくらでも変わります。誰が撮ってもほぼ同じクオリティーに仕上がるのがスマートフォンのカメラで、本人の技量がより問われるのが、一眼レフ機といえるでしょう。本人の工夫と、時には天候条件などの人知を越えた要因によって、再現性の低い芸術写真は生み出すことが出来ます。

 

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挿絵:海の飛行機雲

ファインダーを覗く意味

 では、どうしてカメラユーザーは、そういった「筆」を求めるのでしょうか。自分がレベルアップしていくのが楽しいから? 友達に自慢したいから? SNSでいいねを稼ぎたいから? 理由はたくさんあるでしょう。

 でも、私がカメラのファインダーをのぞくのは、その向こうに「別世界」があるからです。

 カメラのレンズを通すと、この世界の景色は変わるのです。

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 私の写真で恐縮ですが、これはモンゴルに行った時に撮ったものです。星景写真としてのクオリティーは高い方ではありませんが、東京で夜空を見上げた時以上の美しさはある筈です。私は星の写真を撮るのが好きですが、日本の山奥であっても、こんな風に星が見えることはありません。星がきれいな空というのは、プラネタリウムと似ています。幕のように厚く張った漆黒の上に、ぽつぽつと白い点が見える。それが、肉眼で見える「綺麗な星空」です。この光景は、絶対に写真でしか現わせないものといえるでしょう。

 また、同じように劇的に見え方が変わる被写体の一つが、花火です。スマートフォンで花火を撮ろうとした方は誰しも、「全然綺麗に撮れない」と思った経験がおありでしょうが、一眼レフ機では、そんなストレスを抱えることが減ります。

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 しかし実際に、肉眼でこんな風な花火が見えることはありません。写真で見られるのは、実物とは別次元の花火なのです。

 カメラには、世界観を劇的に演出する力があるのです。

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世界の味付けを変える

 自分の手でダイヤルを変えてシャッターを切る時、見えていた日常に別の世界が重なります。カメラのファンの多くは、この「別世界」に魅せられているのだと、私は思います。自分の手で別世界を演出する楽しみと、メモリーに残った写真の美しさを噛み締めるだけで、カメラをやっていて良かったと痛感します。

 肉眼以上の世界を自分の手で作り上げ、世界の一部を劇的に魅せられるのが、一眼レフ機なのです。

 皆様の中には、世界の風景写真を見て興奮したものの、実際に行ってみたら思ったほどではなかった、といった経験をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。それはある意味では仕方ないんです。カメラの中にあるのは、この現実世界と、重なってはいるものの、全く違う世界なのですから。

 私は、この世の原風景を愛しています。「カメラばっかりいじっていないで直接見て楽しもうよ」という人の気持ちも分かりますし、「カメラで撮るよりも目で見た方が綺麗だよ」という言葉に納得する場面もあります。

 ですが正直に告白すると、時折、現実の風景が、演出のない舞台のように感じることがあります。もちろん台詞があって役者は生き生きと動いているんですが、何かが少し物足りない。はっと目を引く演出が加われば、ぐんと引き締まるようなストーリーなのに、と。

 自分の体験談でもそうですが、全てを見たままありのまま時系列順に話すことばかりが、重要なことではありません。強調したい部分で声のトーンを変えたり、印象に残すために順序を逆にしたり、必要によっては少し誇張したりなど、面白い話には話し手の作為が必ず絡みます。カメラも同じです。「あの景色がきれいだった」という感動を知らない人にも共感してもらうためには、その時自分が見た以上のものを見せる必要があるのです。私たちはそのために、世界をほんの少し美しく、ドラマチックにしています。

 

 料理でたとえれば、ごく普通の料理と、創作料理の違いに近いのかもしれません。もちろんどちらも食べられるし、美味しいけれど、自分で新しい組み合わせを見つけて料理を作る楽しみ、新しい味を発見する楽しみは、味わい尽くせないものがあります。そしてそれを「美味しい」と言って貰えた喜びは、レシピ通りに作った時よりも格段に大きいでしょう。

 

 だから、どんなにスマホのカメラが進化しても、一眼レフカメラに匹敵するカメラがなくなることはないと思います。母親の料理が以前よりも美味しくなったら、外食の機会が減ることはあるかもしれませんが、一流のシェフがいなくなることはないのと同じように。

 

このブログを読んだ方が一人でも多く、カメラの楽しさに気付いてもらえますように。

 

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おわり。

 

 

公開日:2020/7/12

『BEASTARS』がすごい(ネタばれなし・感想)

 ある表現を境に、急にその作品を薄く感じてしまった経験はないだろうか。それは、「そんなに簡単に行くかなあ」「ご都合主義っぽいな」という不信感を持ってしまったり、「ちょっとそれは違うのでは?」と個人的な疑問符を浮かべてしまう時だ。その疑問符は人により種類が違うけれど、私にとっては、「堕落した王が国を傾けていく」描写がそれにあたる。

 理由を平たく言えば、それがステレオタイプだからだ。「亡国の王子」とか「革命」の背景にある国を傾けた根源は、酒や女に耽溺し、国政を疎かにする君主が圧倒的に多い。或いは、権力を振りかざして好き勝手やり、諫言する臣下を斬首にする暴君でも良い。領土欲に燃え、他国を簡単に焦土にしてしまう為政者かもしれない。要は自分の個人的な欲望に走り、明白な倫理を踏み躙って、他人に害を加える人間である。

 別にそこには、完全な嘘はない。歴史の中でも、そうした君主のせいで滅亡した国もたくさんある。だけど私は、この描写が出てくると、強い引っ掛かりを覚えてしまうのだ。「社会の秩序が乱れるのって、そんなに簡単な理由なのだろうか」と、首を傾げたくなってしまう。一様に嫌いなわけではなくて、彼らなりの理屈や、そこに至る過程が丁寧に描かれていればむしろ面白い。だが、どうしても「権力をかさに好き勝手やっている王がいました、国が傾きました、はいそこでは……」とトントン拍子に進められる物語については、他人に薦めたい気持ちにはならない。

「力ある者が、恣にその力をふるい、人々が苦しめられていく。」……確かにそこには、分かりやすい「悪」がある。でも、それは3歳児も飲み込める当たり前の「悪」だ。完全なる悪人が「力」を振りかざして生まれる悲劇は、あまりにも見え透いている。かのユリウス・カエサルも、「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」という言葉を残している。その通り、権力者の思惑というのは、創作者が思うほど単純ではないと思う。人々が苦しむのは何も、年貢の重さや、身分による差別だけではない。昔よりも物理的には満ち足りた現代ならばなおさらだ。

 今も昔も、人々の苦悩は、政治で解決できるものと、出来ないものがある。例えば、誰にも雇用の機会を開くことは政策で実行できても、その職場での差別や偏見をなくすことは、政治の力だけでは難しい。

 では、たった一人の身勝手な権力者がいないならば、その歪みは果たして何処から来るのか。

 それは、社会をよりよくしようとする多くの人間が足掻いた末に、その手足が複雑にもつれあい、生まれてしまうものなのではないか。

 少なくとも私には、そんな風に思えてならない。

 だからこそ、『BEASTARS』という漫画に、深く感動したのである。

 

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世界観

 この作品の舞台は、肉食獣と草食獣が共生する社会である。「肉食獣と草食獣が同じ社会に住む」という設定から、「力が強い肉食動物が力の弱い草食動物を支配する」ような世界を想像するかもしれないが、この物語はそんな一筋縄ではいかない。共生は上手くいっているのだ。肉食獣たちは草食獣たちを怯えさせないよう、自らの凶暴性を押し隠す努力をしているし、草食と肉食が仲良くしている姿は肯定的に見られる。「ビーストブック」というSNSでは、肉食獣と草食獣が仲良くしている写真に多くのいいねが付くし、異種族婚は「時代の先駆け」とも言われる。「肉食獣が強いままでいられる時代は終わったんだ」と、作中でライオンも言っている。

 そうして、一見すると彼らは平穏な毎日を過ごしている。だが草食獣たちは、心の何処かで肉食獣を恐れているし、肉食獣もまた、草食獣に怯えられるストレスや肉食の本能と戦っている。肉食獣たちが暴走しないよう社会にはガス抜き措置が用意されており、どういう形にせよ、平和は保たれる努力がされている。

 しかし、共存の姿勢は時には歪でもある。例えばこの街の市長のライオンは、草食獣に親しみやすさをアピールするために、400万を掛けて整形手術を施し、牙を全部入れ替えている。そしてその市長の整形は市民たちに肯定的に受け入れられているのだ。この作品が見せるこうした歪さはあまりにも真に迫っており、ぞっとしてしまう。他にもクマのアイテムなど、数え上げればキリがないが、本当に細部まで手が込んでいて惹きつけられるのだ。

 そうして平和を享受する草食獣と肉食獣だが、ちょっとした衝突の時に、押し隠していた不満を漏らしたりする。生まれた時から付与された本能が、互いへの偏見が、意図せずに相手を傷つけたり、故意に相手を遠ざけようとしてしまう。

 しかし彼らも、互いを疎むだけではない。肉食獣の強さと美しさを誇りにする肉食獣もいるし、それをうらやむ草食獣もいる。一方で、草食獣のか弱さと可愛らしさを強みにする草食獣もいるし、焦がれる肉食獣もいる。自らと他者を取り巻く感情は非常に複雑なのだ。相手のことを知っていくうちに、自らと向き合わされ、時にはその形さえ揺さぶられながら、彼らは少しずつ互いに歩み寄っていく。

 

 『BEASTARS』は、そんな模索を繰り返す獣たちの、葛藤の物語なのである。

 

キャラクター

 この物語の主人公は、レゴシというハイイロオオカミだ。レゴシは図体も大きく、肉食動物の中でもひときわ強い力を持つが、根暗で優しい性格をしている。そんな彼はある時、衝動的に、ハルというウサギの少女を捕食しようとしてしまう。この世界では肉食は絶対の禁忌だ。罪悪感を抱きながらも、レゴシはハルに恋をする。そして、捕食の欲と、逃走の本能とに邪魔されながら、彼らは自らの気持ちの答えを見つけようとするのだ。

 演劇部部長・アカシカのルイもまた、この物語のもう一人の主人公といっても過言ではないだろう。草食動物でありながら、強く孤高の存在であろうとするシカのルイと、自らの凶暴性を抑え、目立たないようにあろうとするオオカミのレゴシは対照的だ。当人たちは自らの意思を全うしようともがくのだが、その意思とは無関係に、オオカミの肉体は頑健で強く、アカシカの手足は折れそうに細い。その身体的に付与された個性に抗いながら、彼らは自らの立場を肯定して、強い絆を結んでいく。

 そしてヒロインのウサギのハルは、ルイとは別のやり方で、草食獣の立場を強かに生きようとしている。このハルはヒロインにしては珍しいタイプで、女子からはあまり好かれないが、芯をちゃんと持っていて強い。それに物語が進むごとに、魅力が増していくキャラクターでもある。

 この物語のキャラクターに共通することだが、脇役でもチョイ役でも、ちゃんと、吸い込まれるような深さを持っている。短い描写であっても、その獣が生きてきた分の重みが伝わって、胸に迫るのだ。

 もしこの作品が、「肉食獣に虐げられる草食獣たち。いつか、肉食獣の座に取って代わるぞ……! 俺たちは弱いけど、皆で力を合わせて立ち上がるんだ!」という物語だったら、私は途中で読むのをやめていたかもしれない。だがこの物語では、既に「両者が共生している」という前提があり、「互いを受け容れなければならない」という社会通念があり、それでも、消せない偏見や乗り越えられない壁に、獣たちはもがかなければならない。

 こんなに苦しくて、息が出来なくなりそうな葛藤の中で、強く優しくあろうとする。そんな獣たちの生きざまには、涙を流さずにはいられない。

 

「優れた書き手」

 優れたアイディアの数よりも、優れた書き手の数の方が少ないと、私は考えている。

デスノート』を例に挙げよう。「名前を書き込まれた人間が死ぬノート」――そのアイディアだけでも充分魅力的だが、もしあの大場さん以外の人間がこのアイディアを授かっていたと仮定しよう。一番ありそうなのは、「嫌いな人間をデスノートで殺した主人公は自己嫌悪に陥っていき、物語はその葛藤を追っていく」という作品に仕上がることだ。或いは、「好きなだけ人を殺して性格が歪んでいく主人公」だろうか。今の『デスノート』の骨子ではあるが、充分ではない。

デスノート』がヒットしたのは、「犯罪者を裁く」という正義感を振りかざし、未知の手段で殺人を起こす犯人と、それを検挙する探偵との心理戦を中心に持ってきて、見事なストーリーに仕上げたからだ。それに加えて、主人公が月であるのも大きな理由だ。少年漫画のセオリーで言えば、エルを主人公にして犯人を暴くのがセオリーだろうし、ミステリーの視点からも、犯人は隠しておいて探偵に推理させるのがオーソドックスだ。「デスノート」の存在をミステリーの規則違反にしたくないならば、コナンのように犯人役を黒ずくめにでもして、反則にならない程度の情報を開示するなど、やり方はあった。だがそれでは、月の天才的な頭脳のキレと、その性格が歪んでいく過程は追えなかっただろう。今の形が「デスノート」というアイディアに最もフィットしていたのだ。たとえ誰かが「名前を書き込まれた人間が死ぬノート」のアイディアを授かっていたとしても、あの大場めぐみさんと小畑ケンイチさんのペアしか、あれだけ面白いものにすることは出来なかったと思う。

 

 『BEASTARS』の核となる「肉食獣が草食獣と恋をする」というアイディアも、「肉食獣と草食獣が一緒に暮らしている」という舞台設定も、素晴らしいものだと思う。だが、まだこれだけで稀有とは言えない。無根拠に正義を振りかざすことなく、自分や社会の目を背けたい部分も見据えて、挫折にも立ち上がる過程を、残酷なまでに的確に、かつ力強く描き出したからこそ、この作品は魅力的なのだ。たとえ誰かが同じアイディアを授かったとして、同じことが成し遂げられたとは思わない。

 

 端的に言うと、私は、この作品にすっかり魅了されてしまったのだ。初めてこの作品に出会った時、私は、息をするのも忘れて、この作品を読み耽った。ページをめくっては戻り、台詞や絵を何度も噛み締めてから、溢れてくる涙を拭い、大切に大切に読んだ。

 私がこれから、何度も、この作品を読み返すだろう。だが、初めて読めるのはこの一回だけは、どんなに舌の上でゆっくり味わったとしても、食べ終わるのを勿体なく感じてしまっていた。

 だが、食べ終わってしまっても、悲しむには至らなかった。この作品は、喉の奥に落ちた後も、口のなかでずっと余韻を残してくれる。涙が去った後のようなつんとした感覚と、優しく強い、勇気の味を。

 この感動を、少しでも多くの人に知ってもらいたい。この素晴らしい作品が、見えない生きにくさにもがくような、そんな人々の手に届くと良い。

 そんな気持ちで、この記事を書いた。アフリエイトなどは特に何もしていないので、収入などは入らないが、誰かがこの作品を読んで共感してくれたら、それだけで、私はとても嬉しく思う。

 

 

おまけ

ところどころで、壁に「キバはむかずに前をむけ」とか「食べる前に 毛洗い・手洗い・爪洗い」などと書かれた張り紙があったりする。こういう絶妙な戯言のセンスも、ニヤニヤさせられてとても良い。

 

公開日:2020/6/14